「面接室で起きた全てのことの責任はセラピストにある」
以前、システムズアプローチ(家族療法の一種)の大家・東豊先生が講義でこのようなことをおっしゃっていました。
面接室で起きた全てのことの責任はセラピストにある。
ここで想定されているのは心理療法のような「セラピー」ですが、医師の診察や私たちソーシャルワーカーの相談の場面でも、クライエント(相談者)が怒りを露わにしたり、暴言や暴力などの行動をとったりすることがあります。
そのようなとき、医師や心理士、相談員などの「専門家」は、その行動の原因をクライエント側の問題(精神症状とか性格など)と考えてしまうことがあります。
東先生の言葉ははそれをたしなめているんですね。
先生は「治療者が何か(怒らせるようなことを)言ってしまったから(相談者は)怒ったんだよ」とおっしゃっていました。
仏教にも「善因善果」「悪因悪果」という言葉があるそうです。
善い結果が出たなら、それは善い動機があったから。
悪い反応が返ってきたなら、それは動機が不純だったから。
そんなような意味らしいです。
良かれと思ってやったことなのに、それほど良い反応がなかったり、相手が怒ったりしてしまうことが、私たちの日常生活ではしばしばあります。
そんなときは、こちら側に何か原因があったのではないかと振り返ったほうが良さそうです。
「『良かれ』は本当に相手のためだったのか」と。
自分の心配事を採りあげよう
私の傾倒している「オープンダイアローグ」のきょうだいのような方法に、「アンティシペーション・ダイアローグ(未来語りのダイアローグ)」というものがあります。
この「アンティシペーション・ダイアローグ」には、それを実施するための最も重要な準備作業としてというステップがあります(無料で英語版テキストがダウンロードできます。さいきん邦訳も出版されたところです)。
「Taking Up One's Worries」とは「自分の心配事を採り上げる」というような意味です。
ここで強調されるのは、「自分の」の部分です。「相手の」ではないのです。
「対話」を始めるにあたり、そこで取り沙汰される「心配事」が「誰のものなのか」がとても重要だということを、この言葉は強調しています。
私たちは、よく「あなたのことが心配なんだ」と言います。
しかしこのとき、内心は往々にして「あなたがちゃんとしなかったら私が迷惑するので困る」みたいなことだったりします。
とすれば、「あなたに迷惑をかけられないかどうか私が自分のことを心配している」と言う方が正直です。
もう少しつきつめると、ほんとうの「心配事」とは、「私は自分で自分の身を守れるかどうか不安なので助けてほしい。だけど怖くてそれが言えない」のようなものになるでしょう。
そうやって自分のこととして正面から採り上げられないから、自分以外の誰かにひっかけて表現してしまうのですね。
何か思うようにならないことが起きたとき、私たちはついつい、自分以外の「目の前の対象」を操作したり「改善」したりしたくなります。
しかし、そのようなときはむしろ、私たち自身の「動機」や「善意」、つまりは「こころのなか」を点検してみる方が、あんがい早く「改善点」を見つけることができるかもしれません。
私も日々、自分の「良かれ」の身勝手さにびっくりしているところです。(T_T)
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