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「オープンダイアローグ」トレーニングコース受講レポート④

更新日:2020年5月26日



トルニオのバス停
ケロプダス病院への道すがら、帰る方法も調べる(2016年7月)

2019年5月3日から受講開始した、ODNJP主催の年間研修「オープンダイアローグトレーニング基礎コース(第2期)」の受講レポートです。


本記事は同トレーニングの第1ブロック第2クール初日(通算4日目)についてのものです。第1ブロックはこの日から第2クール(2泊3日)に入りました。




この日の内的対話(ハイライト)


◆「オープン」でいられるかもしれない、と感じながら


濃密をさらに煮詰めたような第1クールの終了からわずか中4日、私たちは再び上京しました。「さっきまで居たような感じのする懐かしい会場」に向かって歩きながら、私は自分がやや緊張しているのを感じました。「うまくやれるかな」「適応できるかな」。そんなことを考えている自分がいました。いつものことではあります。


このとき、私の脳内で、「すべての人を好きになる必要はない』ということが腑に落ちる、という現象が突然起きました。京急蒲田駅前のアーケードを歩いているときだったと思います。私は「ああそうか!」と思いました。


もちろん、そのことは「知識」としては知っていました。よく言われることでもあります。しかし、私にはそのことがピンときてはいませんでした。言い換えると、「分かっちゃいるけど、止められない」というやつです。「それができれば苦労しないよ」と表現される事態でもあります。


繰り返しになりますが、このとき突然、それが「脳内でピンときた」のです。私はびっくりしました。


ここからは私の好きな「理屈」の出番です。関連する事柄を脳内で結びつけ、新たに獲得した信念(スキーマ)を補強していきます。


「すべての人を好きになる必要はない」。そうかそうか。何人かの重要な人に好かれてるから、それでよかったのか。はー、そうだったのか。この感覚がそれか


ということは、巷間言われる「すべての人に好かれる必要もない」も、そうなのか。はー、知らんかった(知ってたけど)。


これは言い換えると「すべての人と対話する必要はない」ということにもなるのかもしれない。


これは・・・、ですね!


私は、会場へ向かう自分の肩の力が少し抜けるのを感じました。「うまくやれるかな」とか考えていたけど、「うまくやる」必要はないのか!知らんかった!そんな感じがしました。


私の思考や行動には、もはや無用の長物と化した旧い不適応的な信念「~しなきゃ」がたくさんあります。それらのアンインストールはなかなか進まないのですが、ときに、こうして「え!?しなくていいんですか!??」と腑に落ちることがあり、そのたび心や身体が軽くなったような気持ちになります(もっと早く知りたかった、という悲しみとともに)。


ダイアローグの場というのは私にとって湯治場で温泉蒸気を浴びるようなもので、思考のデトックスをしてくれるというか、「常人のあたりまえ」に私を戻してくれる作用があるように感じます。


対話的な空間で促される内的対話が自然治癒力を発揮して、思考の体質改善みたいなことになっているのかもしれません。


ただし、と私は思いました。


知ってる。「必要はない」からといって「しなくていい」というわけではないんだよね。すべての人に好かれる必要はないけれど、私の心の中に「重要な人」が増える余地は残しておいた方がいいんだよね。「大切な人」の席を増やせるようにしておくのがいいんだよね。


すべての人に好かれなくてもいい→気が楽→リラックス→いい感じのわたし→心の中の席をあけておける→好きな人が増える、という好循環にすればいいんだよね。


私は、自分がそんな好循環の中にいるのを想像しました。ま、まぶしすぎる・・・。溶けてしまうかもしれない・・・。


「常人」の世界ではこれを、オープンネス、とでもいうのでしょうか。私は人生で初めて自分が「オープン」でいられるかもしれないという光明を感じながら会場へ向かいました。



◆幽体離脱したサナギ


上記のような「腑に落ち」があったため、私のこころは軽くなり、会場に着いてからもふわふわとしていました。


私は自由になった心で別のことを考えていました。私的に受けているコーチングの課題について。私たちの活動を通じて、どうすればもっと多くの人に対話を届けられるかについて・・・。


この夜は、第1クール3日目の5人グループを再び作り「どうすれば対話的な空間を作ることができるか」について対話を続ける、というワークが課されていました。しかし、そのワーク中も、私の心は自由自在に会場の天井あたりを飛び回っていました。


ダイアローグの中で、私はそのことを声に出しました。ごめんなさい、私の心はちょっとここにいません。さらに、先週と今とでは私は別の人間のようで、同じテーマだけど同じ考えではありません。先週はこのテーマを「マジョリティ/マイノリティ」という切り口で語ったけど、今の私はそういう考え方に関心がなくなりつつあります。


すると、他のグループメンバーからも、同じような事態にあるということが表明されました。「同じような」というのは、つまり第1クールと今とでは心身の状態や考えが異なっている、ということです。


私は、それを打ち明けあえてよかったな(安心だな)と思いました。同時に、第1クールを経て、いま私(たち)はサナギのようだなとも感じました。中ではドロドロに溶けていて、個体として再構成されるのを待っているサナギ。


(※第1クール3日目のレポートで書いた、このグループでのダイアローグの内容のまとめには、この第2クール初日で話したことも多分に含まれています。そのことに、今回分を書いて初めて気が付きました。)



◆手放す練習(ダイアローグを信じて)


心身が急激に軽くなったとはいえ、依然、私には一抹の不安がありました。それは「スタディグループ」のことです。


本トレーニングでは、年4回のブロックの合間に自主的な学習を進めることが推奨されています。その学習は、他の受講者数名と「スタディグループ」を組んで行うこととされていました。


私には、その「スタディグループ」をうまく組めるかな、という不安があったのです。


東海三県から参加しているチームは私たちのみです。静岡からすら参加者はありません。


「スタディグループ」作りについてはこの第2クールの2日目の終了後に話し合われるとアナウンスされていました。しかし、会場のそこここではグループ作りの折衝が水面下で始められているようでした。私たちから見て「強いて言えば最寄り」な長野や滋賀からの参加者は、すでに北陸や近畿の参加者とグループを組む約束をしているようでした。


私は「修学旅行の班決めみたいだな」と感じていました。私が大の苦手にしているやつです。心の中に嫌な感じが生まれました。


さらに、私にはコンプレックスもありました。他の参加者(チーム)は医療機関スタッフがほとんどで、民間かつ制度外の存在は私たちくらいしかいませんでした。私たちと勉強したいと思う人なんているんだろうか、という(卑屈な)思いがむくむくと湧いてくるのも感じました(これも、いつものことではあります)。


不安を一人で抱えず口に出す練習をしている私は、一緒に参加している妻と、一人のco-trainerに、上記の心配事を打ち明けました。


妻は「そういうことは考えないことにした」と言いました。「対話を信じる」とも言ったような気がします。co-trainerは、スタディグループ作りもまた対話に委ねられている、というような趣旨のことをおっしゃったような気がします(記憶がおぼろげ)。


私は「妻すげーな」と思いました。「ほんとうに対話に委ねられたらいいな」とも。他方で、私の中のアラート(警報音)は鳴り止みません。


しかし、私も妻に習い、そのことを考えないことにしました。「手放す」「委ねる」というのもまた、私が練習中のことだったからです。



さよならタガイタイ
初めてフィンランドに向けて旅立つ朝(2016年6月、フィリピン・タガイタイにて)

この日の印象に残ったフレーズ


How can we generate a dialogue?


「どうやれば対話を発生させられる?」


「発生させる」ということは、ただ単に話していれば対話になるわけではないということだと思う。こちら側だけが対話だと思って話していても同じ。この問いを常に頭の中に走らせておくことが重要だと思う。「今しているこの会話、ダイアローグになってる?」を常に自問したい。



Take care of yourself. (again)


「自分のケアをしてくださいね。」


一日の最後にこれを聞くと、毎回ハッとする。そういう発想がない自分に戻っていることに気付かされるからだ。おそろしい。



つづきます


今日も今日とて長くなりましたが、読んでいただいてありがとうございます。


この後、第1ブロック第2クールは5月12日まで続くことになります。私たちにとっては大変な3日間でした。






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