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アダルトチルドレンだけど親のいいとこ探しをする

更新日:2020年6月17日


フィンランドのホスト宅の庭にあった果樹
これと同じ木を父が植え、母が実でジャムを作った(ヘルシンキ空港そばのAirbnbにて、2016年初夏)

※2020/05/26記

この記事は2019年2月に書いたものです。リカバリーが進んだことで、現在の私の気持ちや考えは変化しており、この記事を書いた当時とは異なります(たとえば、久しぶりにこの記事を読むと、「してもらったこと」に言及するといいながら感謝の言葉がないことに、我ながら違和感を覚えます。)とはいえ「読んで参考になった」というご感想をたびたびいただくため、あえて残してあります。

 

突然ですが、今日は自分の親をほめたり感謝してみたりしようと思います。


昨年来、私は自身がアダルトチルドレン(AC)であるとの認識をいよいよ強めて生きていました。


実は最近、その感覚が少し薄らいだというか、後景に退いてはいるのですが、それでも私の原家族に機能不全があり、子どもの私の体験が過酷だったという(主観的)事実は変わりません。


ACにとって、親に感謝したり、親を赦したりすることは最も困難なことのひとつです。


そもそも、それらはACにとって「しなければならないこと」ではありません。


ACにとって第一に重要なのは自身の癒やしと回復、そして幸福になることです。「親を赦す」などということは、それらが実現した後に余裕があれば取り組んだらいいようなことかもしれません。


個人的には、回復のために取り組んだ様々なセラピーやワークの過程で、既に親を赦しています(実際に会って赦したわけではありません)。


「赦す」というか、執着しなくなりました。謝罪とか、彼らに変化を求めることを止めました。


しかし、悲しみは依然としてあります。


「赦すこと」と「私のこころが癒されること」とは別です。


また、「親にされた(酷い)こと」によるトラウマや、それに伴う不利益もいまだにあります。


過去のショッキングな体験により変化をきたした私の脳や身体は、私の意志にかかわらず、ある特定の状況下では現在も強い反応を起こします。


そのことで、私は多くの人・もの・機会を失い、選択を狭められるという不利益を被り続けています。


それにもかかわらず、私は今回、親をほめ、感謝してみようと思います。


それは「されたこと」と「してもらったこと」を区別するためです。



「されたこと」と「してもらったこと」はどちらも実在する


私は「親にされた(酷い)こと」と「親にしてもらった(善い)こと」を区別したい、区別するべきと考えています。


言い換えると、「親にされた(酷い)こと」があるからといって「親にしてもらった(善い)こと」をなかったことにして生きたくない、という思いが私にはあるのです。


それは、私自身が親にそうされたくないからです。


もし私の親が「お前にしてやった(善い)ことだってたくさんあったろう」と言って、彼らが私に「してしまった(酷い)こと」を帳消しにしたり、相殺しようとしたりしたら、私はとても悲しくなるでしょう。


その逆を、私はしたくないのです。


考えてみれば当たり前ですが、「されたこと」があるからといって「してもらったこと」がなくなるわけではありません。


同様に、「してもらったこと」があるからといって「されたこと」がなくなるわけでもないのです。


アダルトチルドレンにとって親を赦したり親に感謝したりすることが難しい理由のひとつが、このあたりの飲み込みづらさにあります。


すなわち、親にしてもらった(善い)ことを評価すると、親を責められなくなるような気がするのです。


つまり、自分が「されたこと」はそんなに酷いことではなかったのではないか、とか、自分のこの怒りや悲しみは大げさすぎるのではないか、とか思ってしまうのです。


親に「してもらったこと」を正当に評価すると、「されたこと」に対する自分の感情(や体験そのもの)まで否定しなければならなくなるような気がする。


それが、ACにとっての「親を赦すこと」の難しさの一端ではないかと思います。


しかし、繰り返しになりますが、親が「してくれたこと」について正当に評価することと、親に「されたこと」についての私の体験や感情とは、両立します。それは、どちらも確かに存在したからです。


私は、自分のリカバリーのために(セラピーの中で)親を赦しました。だからといって悲しみが消えたわけではありません。つらかった記憶もあります。脳や身体の反応に未だに当時の体験が刻まれ、私の生活の質に影響しています。


それでも、きょう行いたいのは、親に「されたこと」があるからといって「してもらったこと」まで無かったことにするのを、私自身が止めることです。


それは、そうすることが私自身がより善く生きるために必要だからです。他の誰のためでもありません。


また、他のアダルトチルドレンもそうすべきであるとも、回復に必要なことであるとも思いません。無理にそうする必要はありません。これは、リカバリーのための、個人的な実験のようなものです。


(実は昨年、私は両親に「感謝の手紙」を書いて実際に送りました。まだ怒り混じりで上手く書けなかったですけど。)



父親の善いところ・好きなところ・してもらって嬉しかったこと


社会的弱者の権利擁護に熱心


私の父は公務員で、福祉行政に携わっていた時期がありました。まだ発達障害が周知されていなかったころ、ADHDと思しき生徒が学校で身体拘束されているのを知った父は、教員に発達障害の資料を渡して強く抗議したといいます。


また、患者には使う安い血液製剤を息子には使わないと公言した歯科医に「辞めちまえ」と言い放ったのにも、子どもごころに感動した記憶があります。


私が小学生のとき、知的障害のある子が私の家に勝手に入って小銭を持っていったということがありました。父が私たちに厳格に箝口令をしいたのも、いま思うと素晴らしい対応です。



フィンランドが好き


父は1980年代のはじめごろからフィンランドが好きでした。公務員としてまちづくりに携わっていた父は、気候風土のよく似たフィンランドの文化を取り入れ、クロスカントリースキー(地元の北海道では「歩くスキー」と呼んでいました)の普及や姉妹都市提携に力を入れたり、森や公園を中心にしたまちづくりを推進したりしていました。


また、実現しませんでしたが、フィンランドから木材を輸入して家を建てようとしたこともあります。


私は36歳になって初めてフィンランドに渡りましたが、そのとき、風景があまりに故郷にそっくりでびっくりしました。異なったのは、ギラギラした商業看板がフィンランドにはないこと、建物のデザインセンスが段違いなこと、そして人の知性でした。フィンランド人は幸福が何かを知っているという気がしました。


私は後に「回復のためにはフィンランド人になるしかない」と思いましたが、当時の父もそうだったのかもしれません。



友だちがいる/組織で働きとおした


これはいまの私の「苦手なこと」「できないこと」です。父にはそれができていました。友人がいましたし、組織で定年まで勤めあげました。



子どもに旅をさせた


私の両親は私たち子どもに旅をさせるのにあまり抵抗感がなさそうでした。小学生のころから、子どもたちだけで祖父母の家に遊びに行っていました。母の実家は静岡県にありましたが、兄と二人で飛行機と新幹線に乗って行ったことがあります。現在の私の旅好きの原体験です。



車のタイヤを換えられる/畑をやっていた


そういう「男の甲斐性」みたいなものが父にはありました。それは父方祖父から受け継いだものであるような気がします。父方祖父も、がんで無くなる直前まで小さな畑の世話をしていました。



きょうだいの仲が良い


父は4人きょうだいの3番目、三男です。私の知っている叔父たちと父の関係はとても良好です。親戚が集まると父がよく祖父や叔父たちと囲碁をしていたのを思い出します。



山菜とりに連れて行ってくれた


よくアイヌネギ(行者にんにく)やタランボ(タラの芽)を取りに連れて行ってくれました。今では名古屋のスーパーでもアイヌネギを売るようになりましたが、見かけるたびに子どものころを思い出します。父はワサビ(山わさび)をその辺のあぜ道で掘って、おろしてごはんのせて食べるのも好きでした。



標語で佳作になったとき


小学2年生のとき、町の交通安全標語コンテストで私が佳作を取りました。その晩、遅く帰ってきた父はその報せを母から聞き、私の眠る2階へ上がってきて、布団の中の私に声をかけてくれました。私は眠っているふりをし、返事をしませんでした。父は「何だ、寝てるのか」と、ちょっと照れくさそうな声で階下に降りていきました。私はうれしかったのです。



マンガ好き


父はやたらと蔵書を持っていました。漫画も多くあり、私と兄は幼いころから手塚治虫、石森章太郎、永島慎二、横山光輝などを読むことができました。



犬を葬ってくれた


私たちは10年間ほど犬を飼っていました。じゅうぶんな世話をしてやることができず、私は今でも悔やんでいます。その犬は私が大学受験のため家をあけているときに亡くなりました。私は空港に迎えに来てくれた母からそれを知らされました。


北海道はまだ厳寒の時期でしたが、父は重機を手配して雪と凍った土とを掘り返し、亡くなった犬を庭に埋葬してくれたそうです。



母親の善いところ・好きなところ・してもらって嬉しかったこと


マドレーヌといちごアイスが美味かった


母は料理があんまり上手でなかった印象があるのですが、マドレーヌといちごアイスは美味しかったのを覚えています。少し傷んで値の下がったぶどうを箱で買ってきて濃いゼリーにしたものも美味しかったです。誕生日のケーキもたいてい手作りでした。



ジュビロ磐田のTシャツと、高いプリンター


中学生になったくらいのころでしょうか、家族でドライブに行くのに私が来ていく服がないと漏らすと、母は自分用に買っていたジュビロ磐田のTシャツを私にくれました。


また、1998年ごろ、Tシャツプリントができるプリンターを、まだ非常に高価だった時代にもかかわらず買ってくれました。私が間もなく高校を卒業して家を出てしまうためではなかったかと思われます。



大福を買ってくれた


小学校の授業参観で、担任が「大福を食べたことのある人は?」と挙手を求めたことがありました。私は手を挙げませんでした。それを見ていた母は、その日のうちに大福を買ってきてくれました。私にはそれがうれしかったです。



サポートの少ない中で3人育てた


母は20歳で兄を妊娠、結婚、21歳で出産しました。大学は中退しました。実家から離れた、北海道という見知らぬ土地へ越してきて、一人で3人の子どもを育てました。いま考えると信じられないというか、エクストリームな状況だと思います。


母が運転免許を取ったのは、私が小学校に入ったくらいのころではなかったかと思います。女性が運転免許を取るのがまだまだ普通ではなかった(周囲に説明が必要だった)ころです。北海道のド田舎なので、徒歩圏内には小さな個人商店しかありません。免許を取るまでは、スーパーへ行くのに小さな子どもを3人抱えてバスに乗り、帰りはそこに買った荷物が加わったとのこと。考えるだけで泣きそうになります。



まとめ


思い出してみるとエピソードは尽きません。「されたこと」について考えるときでさえ、「客観的」に見れば、両親それぞれに、家族が機能不全に陥るだけの事情があることが分かります。


私もソーシャルワーカーをしてきたので、当時の両親にもまた支援が必要だったということは理解できます。こんな支援があれば、みたいなことも考えることがあります。


同時に、私はやはり、あのときあそこにいた子ども(の「その後」)でもあるのです。


親の「事情」を、その「子ども」が理解してあげる義務はないように感じます(かつて「理解」しすぎたから)。


主観的には、親が悪い。


客観的には、誰も悪くない。


そんな複雑な感じが、私という一人の人間の中に同居しています。


私がふだん「親は悪くないけど、子どもが親を責めるのもおかしくない」と言うのは、そんな理由からです。


余談ですが、私はセラピーの中で両親(のイメージ)にひとつだけ伝えた(要求した)ことがあります。


それは、「いつかオープンダイアローグで話そう。それまでに斎藤環さんの本を読んでおいてよ」です(父のいいところは、斎藤環さんの講演会に行ったことがあるところです)。


対話には、赦すも赦さないも、謝るも謝らないもありません。そう、私たちはきっと、そういう「目的」のある話ばかりしていたからこうなったのです。


私たち家族がフィンランドから輸入したかったものは、ほんとうはオープンダイアローグだったのではないでしょうか。



 

次の記事を読む:2019読書録 #11-#20




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