先週と今週の日曜、妻が念願の「アトピーお茶会」を本格的に開きました。
妻は生まれた直後からのアトピー当事者です。重度の喘息も合わさって、何度も生死の境をさまよったそうです。小さな子どものころから「死んだほうが楽かな」とか「次、息吸えるかな」とか思いながら生きていたとのことです。
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中学時代にはアトピーによる容姿の変化からイジメに遭いました。また、瀕死で学校に出席できないことも多かったにもかかわらず、学校側が妻の学習の遅れを補うような措置を講じることもなかったとのことです。
そんな妻も、10代の終わり頃いちど寛解します。顕著なアトピー症状はなくなり、大学に行き、精神科ソーシャルワーカーになって就職し、私と出会って結婚します。
寛解後に出会ったため、私も「妻がアトピー」ということを知ってはいましたが、それが何を意味するのかは理解していませんでした。妻も多くを語りませんでした。
ところが昨年になり、妻のアトピー症状が再発します。手足や背中の広い範囲に湿疹のようなものができ、かゆいかゆいと訴えます。私はこのとき初めて「アトピー」というものを目の当たりにしました。
そんな頃、とつぜん妻がこう言いました。
「わたし、アトピーだわ!」
私は「何を言ってるんだ」と思いました。だってアンタ、生まれたときからアトピーじゃん。
しかし妻にとっては違ったようなのです。10代の終わりごろに寛解して以来、妻はアトピーのことを忘れていたというのです。「治ったと思っていた」ということですらなく、アトピーそのものを「なかったこと」にしていたようなのです。
再発を機に、妻は「わたし、アトピーだわ!」と思い出したのです。
アトピーという体験を語る場がほしい
アトピーであることの「再発見」以後、妻は子どものころの過酷なアトピー体験について少しずつ口に出すようになりました。
中学時代、皮膚が裂けてしまうため制服を着る動作ができなかったこと。
それでも着て行った学校で、いじめに遭い、学習の遅れを放置されたこと。
下校の頃には全身の傷口から出た滲出液で制服が身体に張り付き、乾いて剥がれなくなっています。毎日、制服のままシャワーを浴びて、ふやかしてから脱いでいたそうです。着たときと同じように、皮膚を裂きながら。
そんなことを、私は少しずつ聞くようになっていきました。
「アトピー体験を言葉にしたい」と妻は言うようになりました。「語る場がほしい」と。
私たち精神保健福祉の人間にとって「体験を語る」ことの重要性はなかば自明です。繰り返し言葉を与えることで、圧倒されるような過酷な出来事にも人生という物語の中に居場所を与えることができます。「自分という人間にとってそれは何だったのか」が腑に落ちるようになるのです。
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精神病の患者さんやご家族には、語る場がたくさんあります。その「語り」は同じような体験をした「仲間たち(ピア)」によって聴かれ、専門家にはできない「ピア・サポート」が生まれます。
ところが、驚いたことに、成人アトピー当事者やそのご家族のための「ピア・サポート」の場は本当に少ないようでした。
「アトピーお茶会」を作った
昨年の秋から、妻は、大人になったアトピー当事者が自分の体験を自分の言葉で語ることのできる場作りに着手しました。
それが「アトピーお茶会」です。
妻はそれに「アトポス」という愛称をつけました。
「アトポス」とは「アトピー」と「トポス」を組み合わせた造語です。「トポス」は場所を意味します。妻は私と出会ったころから「トポス」という概念が気になる気になると言っていました。
今月になり、妻の想いに共感してくださった記者さんによって、妻の想いは新聞記事になりました。
記事の反響は予想を遥かに超えて大きく、定員6名の小さなお茶会を開くイメージでいたところに、約50件ものお申込みやお問合せをいただきました。妻と同じように「アトピーを語る」ことを渇望している人や、話せる相手を見つけられずにいる方がこんなにいたのだと、私はあらためて驚きました。先週は急遽、定員を2倍以上に増やしました。
運営を手伝いながら、私も「家族」という立場で「お茶会」に参加することにしました。
前述したように、私と出会ったとき妻はほとんど寛解していました。私には衝撃だった昨年の再発も、最悪の時期と比べると段違いに軽いものとのこと。「家族」としての私は、依然アトピーというものについて何も知りません。「家族の気持ち」すら。
「ふつうにしていて」
それでも昨年は「家族にできることは何だろう」と考えました。
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考えた末、「本人にその都度教えてもらうのがいちばん」との結論に至りました。
「ふつうにしていて」とも妻は言います。それは他の当事者たちも同じ意見のようでした。
他方で、「ふつうに」していられる「家族」は少ないのではないでしょうか。
私もそうです。昨年の「軽い」再発のときでさえ私は動揺し、妻にうるさいことを言いました。「そんなにゴシゴシ身体を拭くな」とか「こまめにシーツを換えたらいいのに」とか(私が換えたったらいいだけなのに)。「ポテチ食うんかい!」とも言いました。
しかし、「ふつうに」していることはどうしてこんなに難しいのでしょう。
先日、トラウマ治療の本を読んで「管理職猿」というものについて知りました。
猿を拘束して電流を流します。その苦しむ様子を、もう一匹の猿(管理職猿)に見せます。「管理職猿」の前には電流の停止スイッチ。電流が流れて眼の前の猿が苦しむたび、「管理職猿」は停止スイッチを押します。これを続けると、どちらの猿が早く死ぬか。
答えは「管理職猿」です。
相手が苦しむのを見ているくらいなら自分が苦しんだ方が楽、ということが、この世界にはあるようです。「家族」の苦しみは「管理職猿」のそれに近いのではないかと、私は思いました。
「何もしてやれない」「代わってやることができない」という言葉は「家族」からよく聞かれます。私もそう思ったことがあります。愛する者が苦しむのを目の当たりにして、「家族」は「ふつうに」してなどいられない。やれることは何でもやろうとします。
何でもやろうとして、良かれと思ってやったことが、当事者の「してほしいこと」と食い違うこともあります。そのことで、愛し合っているにもかかわらず、家族がぎくしゃくし始めることもあります。
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苦しむ当事者を前に、「管理職猿」としての「家族」が苦しむ。そのとき当事者もまた、苦しむ「家族」を見て「管理職猿」になることもあるかもしれません。
「家族」が苦しむのを見るのは当事者も苦しい。当事者は思います、「自分のせいで」と。
苦しいと言える場を「家族」にも
この「苦しみ」の連鎖を断つには、当事者と「家族」のどちらかが「苦しくないフリ」をしなくてはならない理屈になります。相手の前では「ふつうにする」。多くの場合、その離れ業に挑んでいるのは「家族」の側ではないかと思います。
しかし、当事者の前で「ふつうに」できたとしても、「家族」の心の中に苦しみはあります。その苦しみをどこで表現すればいいのか。誰がそれに応答してくれるのか。そのような場を家族(家庭)の中に見つけるのは難しいかもしれません。
私は妻が重度再発するのが怖いです。考えたくありません。そうなったら、きっと「ふつうに」してはいられないでしょう。
しかし、私のするべきことは「ふつうにする」ことなのです。だって当事者(妻)がそう望んでいるんだから。私自身も、「ふつうに」できない私を見せることで妻を「管理職猿」にしたくはありません。
思い出されるのは妻の母のことです。妻によれば、義母は娘である妻に、アトピー患者家族としての苦しさを見せなかったそうです。
義母も、しかし苦しかったはずです。それにもかかわらず「お母さんが私のせいで苦しそうにしているのを見たことがない」と妻は言います。
何という人だったのだろう。先週のお茶会の前の晩、妻とそんな話をしながら、義母の偉大さにようやく気がつきました。お茶会に妻の母もいてくれたらよかった。そういう話をしたかった。
4年前、義母はがんで亡くなりました。自身の闘病中(闘っていたかは分かりませんが)、身体的にはしんどそうだった義母でしたが、言われてみると精神的な苦しさを私たちに見せたことはなかったように感じます。
義母はアトピー当事者の「家族」としても、がんの当事者としても、妻や私を「管理職猿」にしませんでした。何という人だったのだろう。私にそれができるだろうか。
それでも、もしかしたら私たちの知らないところで、義母には「苦しい」と言える場所や相手があったのかもしれません。妻という当事者が当事者のために始めた「アトピーお茶会」ですが、私は私という「家族」のためにもそのような場がほしいので、運営に携わっています(そして、それはきっと当事者のためでもあります)。
ぜひ一緒に「アトピー(の当事者の家族である)という体験」を語り合えたらと思います。
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