10月13日に「家族のためのアトピーお茶会」を開きました。6月以来、2回めの開催です。
私の妻はアトピー当事者で、昨年の秋から「アトピーお茶会」をやっています。これは、その「家族版」です。
「家族のための」だったんですけど、この日は当事者3名と家族2名でのお茶会になりました。
この会は、ナラティブ(自分を物語ることでの回復)というか、ピアサポート(似たような体験をした者どうしによる支え合い)というか、そういう会を目指しています。そのため、当事者の参加要件は、自分の体験したことを自分で語れる(語りたいという気持ちがある)ことです。
他方、この日参加した「家族」は、「母親」という立場の方と、あとは「配偶者(夫)」=私でした。
身内以外の当事者の語りを聴く
私は「オープンダイアローグ」(フィンランド発祥の、対話を用いた相談支援)が大好きです。
「オープンダイアローグ」には「リフレクティング」というくだりがあります。
「リフレクティング」とは、自分の話を聴いていた人たちが目の前でその感想や意見を交換し合うのを、外側から眺め、聴くというものです。
「自分についての噂話を目の前で聴くようなもの」等とたとえられることがあります。「え!そんなふうにも聴こえるんだ!?」というような、新鮮な発見や視点の転換が得られます。また、意見を直接言われずに済むため、「噂話」をされる側にとっては、安全に、心の余裕をもってそれを聴くことができる、とも言われています。
私は『モニタリング!』という番組のようだと思います。自分がした話について、他者が意見交換しているのを、別室のモニターで観察するような感じです。
最近は、この「リフレクティング」に支援者だけでなく「当事者」や「ピア」の立場の方が加わることの素晴らしさを強く感じます。
この「家族のためのアトピーお茶会」は、私にとって「アトピー」というテーマと「オープンダイアローグ」とを組み合わせる試みの場になっていて、参加したご家族が身内以外の当事者の体験や考え方を「リフレクティング」を通して聴く体験ができるようにと、ちょっと意識しています。
フィンランドでは「当事者」を「経験専門家」と呼ぶことがあるそうです。医療や福祉のスタッフを従来の意味での「専門家」とするなら、「当事者」は、その人の人生や生活、してきた体験のことをいちばんよく知っている存在=経験の専門家としてリスペクトされます。
「家族のためのアトピーお茶会」では、「経験専門家」としての当事者をゲストとしてお呼びし、参加家族の求めに応じて「リフレクティング」をしてもらおうと意図していました。
ただ、今回は、集まった3人の当事者もとい「経験専門家」(「アトピーお茶会」の言い出しっぺ・けいこを含む)と、1名のお母様の語りと応答の連続がとても素晴らしく、会は私の小さな意図を超えて進行していきました。
私は唯一の聴衆として、ただただ、それを堪能し、アトピー家族としての学びを得ていました(何という役得でしょう)。
「アトピーお茶会」をするたびに、妻・けいこのアトピー重症期の体験が少しずつ語られ、夫としての私は、新たな(と同時に、昔の)けいこを知ることができて嬉しく感じます。それは、他の当事者と出会い、彼らの語りを聴き、それに何かを感じてけいこが応答することによって、開陳されたものです。だから、私は参加してくださったすべての「経験専門家」たちに感謝しています。彼/女らの人生の語りそれ自体も、アトピー当事者の家族としての私の学びになっているのは言うまでもありません。
アトピー当事者はサバイバー
私は昨秋から妻の「アトピーお茶会」を手伝い、たくさんの当事者の語りを聴いてきました。毎回、「これだけの体験や気持ち、思いが、語られず誰に聴かれることもなく、個人個人の胸の奥にしまわれたままこの社会は動いているのか」と、愕然とします。
アトピーは国から難病指定されていないと思うんですが、それがもたらす「生きづらさ」はとても重大かつ広範です。
メンタルヘルスの問題でもあるし(自殺に至ることもある)、家族関係にも影響を与えます。教育分野の課題でもありますし(いじめ、学習機会の損失)、同様に労働の世界の課題でもあります。医療コミュニケーションの問題も深刻に見えます(ステロイド/脱ステロイド等)。
アトピー当事者は、幼少期から、社会的な意味での「障害」と格闘し続けることになります。しかし、彼/女らが格闘するところの「障害」は、「社会」の側からは「障害」と認定されません。そして、そのことが、彼/女らの生存に「障害」を上乗せすることになります。
今回はじめて参加された若い方の語りを聴いているとき、私は「これはトラウマ当事者やアダルトチルドレンの語りではないか」と感じました。アトピー当事者もまた、現在進行形のサバイバーなのだと、私は思います。
当事者でない私が驚いたのは、この「お茶会」を開くまで、多くのアトピー当事者に「アトピーという体験」を語る(聴かれる)機会がほとんどなかったということです。私はトラウマからの回復を個人作業で行うことを「ソロ活動」と呼んでいますが、アトピー当事者のサバイヴはまさに「ソロ活動」に見えました。
けいこは青年期にアトピー症状が一時的に寛解したことがありました。そのあいだ、彼女は自分がアトピーだったということを「なかったことのように」生きていたといいます。結婚後のある日、症状が再発したとき、生後数ヶ月から当事者だったはずの彼女は驚きとともにこう言いました。「わたし、アトピーだわ!」
また、ある当事者は「アトピーという体験」を語り合う仲間が欲しくて、スーパーで見た目にアトピー症状がある人を見つけてはわざと隣で袋詰めをしたこともあったそうです。
部外者の私には、「ソロ活動」を生きる彼/女らの気持ちは、以下に集約されるように思われました。
「わかってほしい」
「でも、どうせわかってくれない」
「だから、言わないでおこう」
「でも」
「合理的配慮」
社会にもう少し「合理的配慮」がなされていれば。
私が彼らの人生の語りを聴きながら、ずっと感じていたことです。
最近ようやく言われ始めるようになった「合理的配慮」。障害や難病のある人がそのために不利益をこうむらずに済むよう、行政機関や民間企業は必要な措置を講じなければならない、と数年前に法律ができました。
この法律や「合理的配慮」という言葉ができたおかげで、「誰が」「誰に」「何を」「しなければならない」かが分かりやすくなりました。
その一方で、何かこれ、配慮しなきゃならない対象としなくていい対象を分けるように機能していないでしょうか。
たとえば、アトピーの人の中には、皮膚が刺激されるため就活時にもワイシャツを着ることができない(≒就活に参加できない)人がいます。
また、水泳の授業に出席できないために、どんなに頑張っても内申点が1になってしまう子もいます。
そういう当事者のために、合理的配慮がなされているでしょうか。
やさしくなりたい
日本には、私が「誰得ルール」と呼んでいる”謎風習”がたくさんあります。
「誰得ルール」とは、「それさえなければ活躍できる人たちがたくさんいるにもかかわらず、それがあるために、ひきこもったり、それに適応するための”訓練”に人生を費やしたりせざるを得ない」ものです。
一言でいうと、「みんな同じでないといけない」とか、「ふつうはこうする」といった考え方にもとづきます。それから、「だって決まりだから」とか。
それを「合理的配慮」という名目で特別免除されるためには、社会的な”認定”が必要です。そのひとつが「障害者」になることだったりするんですけど、その線引きが「配慮しなくていい人」を生んだり、本当は大多数の人が含まれる「”健常者”と”障害者”の間」とか「一時的に大変」とかいう状況を切り捨ててしまったりすることにつながっているのではないかと、私は思うのです(そして、「みんな大変なんだから」と言い合ってギスギスする)。
私は、何かこれ、「やさしさ」の一言で済むんではないかと思うんです。
やさしくすればいいだけやん。
やさしくしていい相手かどうか、誰かの”認定”や”許可”が要るんでしょうか。
「オープンダイアローグ」の界隈では「ニーズアダプテッドトリートメント」とか「支援の脱構築」とかいう言葉を聞くことがあります。いずれも「個別の困ってることを目の当たりにしたら、本人に聴いて、みんなで必要な対処をとる」「カテゴライズして線引きする必要なくない?」という考え方です。
私はそれでいいと思うんですが、それじゃダメなんですかね。
私は上記のようなスタンスを「やさしさ」と呼びます。それは温かいというより、淡々としたものです。想像ですけど、自殺率の低い「人の話を聞かない島」の人たちって、そんな感じなのではないかな…。
「公開アトピーお茶会」がしたい!
この「お茶会」を唯一のオーディエンスとして聴いて、私は「この語りはもっと多くの人に聴かれるべきではないのか」と思います。特に教育関係とか、企業の人事担当の方とかに。
思いつきで、シンポジウムというか「公開お茶会」をやりたいなーと思いました。
たとえば午前中に「アトピー当事者のこころと”合理的配慮”」という「公開お茶会」を基調講演がわりに行い、会場の聴衆ともダイアローグする。
そして、午後から分科会(少人数でのダイアローグ)をいくつかやる。「かぞく」「かゆみ」「しごと」「おいしゃさん」「おしゃれ」みたいな。
(一緒にやってみたい方、ご連絡をお待ちしています→37atopos@gmail.com)
アトピー当事者が痛みに耐えながら血のにじむワイシャツを着なくても好きな仕事を見つけられる世界に、私も住みたい。
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