
困っている人を助けるためにあるはずの病院やカウンセリング、福祉の相談に行き、逆に傷ついて帰ってくる人が大勢います。
多く聞かれる声が、以下の2つです。
「分かってもらえなかった」
「たらい回しにされた」
「分かってもらえなかった」は、いわゆる「ご本人」がおっしゃいます。
「たらい回しにされた」とお感じになるのは、主にご家族です。
私が以前勤めていた、ひきこもり状態にある方のご家族の会で、会員(親)に調査を行ったところ、半数近い方が、家族会にたどり着くまでに4ヶ所以上の支援機関に相談に行ったものの、継続的な支援を受けることができていなかったことが分かりました。
「分かってもらえなかった」「たらい回しにされた」結果、ご本人やご家族は支援を求めることを諦めたり、支援そのものに不信感を持つようになったりします。
ここで重要なことは、病院やカウンセリング、福祉の相談のスタッフは、みな職務に忠実だったということです。
それなのになぜ「分かってもらえなかった」や「たらい回しにされた」が起きるのでしょうか。
トラウマインフォームド・アプローチ
一因として、従来の医療や福祉の支援システムが「トラウマインフォームド」なものになっていないことが挙げられます。
「トラウマインフォームド・アプローチ」という概念があります。
目の前のこの方には、トラウマがあるかもしれない。
癒やされていない重大な傷つきがあるかもしれない、目の前のこの方を、ふたたび傷つけないようにするには、どう接したらいいだろう。
そのような配慮を、支援にあたるスタッフ一人ひとりの対応から支援組織の運営方法に至るまで行き渡らせて行う対人支援が、「トラウマインフォームド・アプローチ(ケア)」です。
かつて気持ちをじゅうぶんに受け止められず、それどころか否定されて育ったような人にとっては、じゅうぶんに話を聴いてもらう前になされる診断や助言は、いくら支援者が「よかれ」と思ってそうしたとしても、「また気持ちを受け止めてもらえなかった」という傷つき体験の再現となってしまいます。
同様に、人に助けてもらえなかった体験を繰り返してきた人が、それでも頑張って相談に行ったときに、「そのお話はここではちょっと…」と別の窓口を紹介されたらどうでしょうか。
医療福祉のスタッフ側から考えるとどうでしょう。
現行のシステムのもとでは、限られた診察時間の中で効率よく分析と診断をし、治療方針を決定するのが専門家の仕事とされています。
こころのケアをするはずの精神科でさえ、午前中に一人の医師が50人以上を診るようなことは、日常茶飯事ですよね(一人あたり3分ちょっとですね)。
おのずと「ごめんだけど、”気持ち”は他所で聴いてもらってよ」となります。
同様に、福祉の制度も「タテ割り」でできています。
福祉サービスの手続きをする窓口に、それと知らず「ひきこもりの子がいて・・・」という相談をしに来たお母さんがいたとします。
このとき、窓口担当者が「申し訳ありませんが、ひきこもりについては”ひきこもり支援センター”に行ってください。地下鉄○○駅で降りて10分歩いて…」と別の専門窓口を紹介するのは、通常の対応です。
そう、現行のシステムでは、通常の対応をしていても、傷ついた人にトラウマの再体験をさせてしまうことがあるのです。
現行のシステムは「この人にはそういうトラウマがあるかも」という想定でできていないからです。
トラウマがあるかも、という意識で対応すること。
現場スタッフがそれをしても許されるシステムにすること。
「トラウマインフォームド・アプローチ」とは、医療福祉や、ひいては地域社会全体が、そのようになっていくことだと思います。
やさしさ
「トラウマインフォームド・アプローチ」、わざわざ専門用語で言わなくていいような気もします。
「優しさ」で済む話ではないでしょうか。
「この設定・ルール・環境でしんどい人いないかな。言い出せない人いないかな」と想像すること。意識すること。
書いていて思いますけど、「言うのは簡単」というやつですよね。
では、どうして私たちは優しくなりづらいのでしょうか(トラウマインフォームドでないのでしょうか)。
それは「トラウマなんて、そんな大げさな」と思っているからではないでしょうか。
あるいは、「私の傷つきなんて、大したことない」と思っているからかもしれません。
社会全体をあげて。
「あなたの傷つきなんて、大したことないよ。」
「もっとつらいのにがんばってる人もいるよ。」
そのような、傷の否認と相互牽制を、私たちは習慣にしていないでしょうか。
受け止めてもらえていないままの、強い気持ち
確かに、これまで「トラウマ」といえば戦争や災害、犯罪被害によるPTSDのことでした。
あとは、分かりやすい虐待によるもの。
しかし近年、もっと日常的な、細かで目に見えない傷つき(傷つけ)が、人生に対し慢性的に悪影響を与えることが明らかになってきています。
(「心理的虐待」や「逆境的小児期体験(ACE)」「マルトリートメント」といった概念も広く知られるようになってきました。)
いずれにせよ、私は「トラウマ」とは「他者に受け止めてもらえていないままの、とても強い気持ち」のことだと思います。
怖かった。つらかった。悲しかった。さみしかった。
私たちは日常的に、ちょっとしたことにも、そのような気持ちを強く感じていることがあります。
子ども時代だと、そのことをハッキリと意識していなかったり、言葉で表現できなかったりした場合もあります。
意識のバックグラウンドに堆積していった、それら「受け止めてもらえていないままの、強い気持ち」たちは、大人になってから、似たような場面で、急速解凍されてよみがえることがあります。
「あのときと同じだ」
「分かってもらえなかった――」
みんなつらくて、みんないい
オープンダイアローグの哲学的基盤となっている文学者・バフチンの有名なことばがあります。
「言語にとって、ということは人間にとって、応答されないこと以上に恐ろしいことはない。」
「気持ち」にとっても、受け止めてもらえないまま放置されていることほど恐ろしいことはないのだと思います。
スルーされることは、存在を否定されること。
世界からその存在を否定されるという意味では、災害や虐待と同じような体験なのではないかと思います。
前回の記事で「みんなつらくて、みんないい」と書きました。
同様に、みんなにトラウマがある(あっていい)のです。戦争も知らないし、虐待されたことがないとしても。
トラウマは、ふつうにあります。
私たちは、気持ちを「ふつうに」スルーしあって、隠し合いながら、そうすることでこの社会を回しているのだと思いますから。
だから「トラウマインフォームド・アプローチ」は特別な人に対して行う特別な配慮ではないのです。
ふつうにあるトラウマへの、ふつうの優しさなのだと思います。
おわりに①
私が思うに、オープンダイアローグのよいところは、それが自然と「トラウマインフォームド・アプローチ」になっている(つまり、優しい)ところです。
たとえば、オープンダイアローグの「聴くこと」「応答」「対話主義」といった原則は、「分かろう」「教えてください」という意志や態度の宣言です。
また「責任性」や「柔軟性」の原則は「たらい回し」をあらかじめ自戒しています。
おわりに②
「トラウマインフォームド・アプローチ」の存在ついて私たちに教えてくれたのが、精神科医の白川美也子さんでした。
白川さんとはオープンダイアローグの学びを通じて出会いました。白川さんのインタビューが中日新聞さんに掲載されていたので、ご紹介します。
関連記事を読む:相談員自身がオープンダイアローグを利用した話
次の記事を読む:はじめからオープンダイアローグしていたなら―
前の記事を読む:みんなつらくて、みんないい
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