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からだをさがそう

更新日:2020年5月26日


からださがし

ちょっと前に「からださがし」に行ってきました。


友だちの友だち(ヨガ講師)がやっている、小さな催しです。特にイベント名はついていないようでしたが、チラシのキャッチコピーが「からださがし」だったので、そう呼ぶことにしました。




からだ」は私の今年のテーマです。


私はずっと、精神医学や心理学、スピリチュアルを使って「こころの回復」をしてきました。しかし、「こころ」は頭の中だけにあるわけではありません。「からだ」とも深いつながりを持っています(そもそも頭(脳)も「からだ」ですし)。


私にとって、「からだ」を通じた「こころ」の回復はまだまだ未知の世界なのです。そういう意味で、「からださがし」というコピーは、第一歩目としては「まさに!」という感じでした。


まず「からだ」を探さないと。出会わないと。



セルフネグレクトを止める


私は長らく、「からだ」をセルフネグレクト(自分の世話を放棄)してきました。


端的なのが、「痔」を15年以上放置していたことです。


私は20歳頃からずっと、痔のために大量出血を繰り返していました。


これがなかなかバカにならず、ヘモグロビン値が7まで下がったことがあります(8の人が入院したという話を聞きましたが、それよりも低かったのです)。


私は毎日、鮮血で真っ赤に染まった便器やパンツを見ながら(汚い話ですみません)、「こんなもんか」と思っていました。何も感じなかったこともあります。


毎日の大量出血からくる貧血は息切れや体力の低下、痛みを感じるほどの手足の冷え、その冷えからくる睡眠の質の低下ももたらしていました。


それでも私は「私の人生、そんなもん」と思って放置していました。


リカバリーに真剣に向き合うようになり、痔の手術に踏み切ったのは、ようやく2017年のことです。


体調は劇的に良くなりました。37歳(当時)にして、まるで若返ったかのようです。息は切れませんし、手足はあったかく、明け方に冷えで目がさめることもなくなりました。


「え、ふつうの人ってこんなにいいコンディションで生きているの!?」とびっくりしました。


そりゃ毎日たのしそうに暮らしているわけだ。ずるい。早く知りたかった。


私は37歳にして初めて「体を大切にすることの大切さ」を学びました。


それは「私の体は大切にされていいんだ(ふつうの人のように)」ということを学習することでもありました。


私は大切にされていいんだ。私は私を大切にしていいんだ。


他者との心のふれあいと同様に、からだを自分でケアすることもまた、自分の大切さを認めるための、よい練習になります。


今回、私が「からださがし」に期待していたのは、そんな「大切にされるべき自分」との、より具体的な出会いでした。



「からだ」が見つからない


「からださがし」は、スペーシーな音楽がかかるなか数人でヨガマットに寝転がり、ゆっくりと呼吸を繰り返すことから始まりました(ほぼほぼそれでした)。


ヨガ講師の方が主催でしたが「ヨガじゃないんだけどね」ということで、呼吸をしながら、背骨や体の重みを自分で感じる・把握することを繰り返した2時間でした。


「からださがし」の時間の中で私が気づいたのは、「からだがみつからない」ということでした。


背骨、腰から膝、喉、といったあたりに意識を向けても、なかなかその存在を感じることができませんでした。


私(脳)はこんなにも自分で把握していない乗り物に乗っているか・・・。


かつて私は「EMDR」や「スキーマ療法」を通じて「感情」というものを再発見し、少しずつ取り戻していきました。


あのときは、「これって、『どろろ』の”こころ”版じゃないか」と思いました。


こんどは「からだ」というものを再発見しなければならないわけですから、ほんとに『どろろ』だなと思います。




「胸を張って生きる権利」に気づく


「からださがし」では、自分の立ち姿勢を見直す時間がありました。


私はふだん無意識に両肩を前方へ閉じていたようで、正しい姿勢をとったときは、肩が開いて、胸が張って、まるで「オードリーの春日」のように感じます。


こんなに堂々と胸を張っていいのだろうか。


根が若林な私は思いました。「こんなに堂々としていたら絡まれるんじゃないか・・・。


いかに普段の自己肯定感が低いか、よく分かりますね(笑)。


ここで思い出されたのが、その日読んでいた本『アサーション・トレーニング』のことでした。




「アサーション」とは、上手な自己表現・自己主張の方法のことです。


その本によれば、自分の思っていることを主張するのは人間すべてに与えられた基本的人権とのことでした。


私はまたもや「え、そうだったの!?」と思いました。ずるい。早く知りたかった。


そうか、もしかしたら胸を張って歩くことも基本的人権の一つかもしれない


私はそう思いました。


自分のからだの世話をして良いように、自分の気持ちを他者に伝えて良いように、自信に満ちた姿勢で立ったり歩いたりしても怒られないのかもしれない。


私にもその権利があるのかもしれない。


私は内側に「希望の感覚」のようなものを感じました。



かつて苦しみがあった場所に


講師はかなり遠慮してくれていたようですが、「からださがし」ではスピリチュアルなことも多少、話されました。


その中で私が「いいなー」と思ったのは、呼吸しながら胸の中に「光」「キラキラ」があふれるイメージをするというくだりです。


私にとって健康になるための作業というのは「とにかく悪いものを出す」ことが優先でした。


それはスキーマ療法で「早期不適応スキーマ」を処理したり、「EMDR」でトラウマティックなエピソードを処理したり、といったことに端的でした。


しかし、悪いものを取り除いたあとには空間が残ります。空虚と言ってもいいかもしれません。


そこに「キラキラしたもの」「あったかいもの」を入れる(イメージを持つ)のはとても気持ちのよいことでした。


「スキーマ療法」の日本での第一人者・伊藤絵美さんも、「早期不適応スキーマ」を除去したあとに「ハッピースキーマ(自分をハッピーにしてくれる信念)」をインストールすることを提唱されています。




かつて苦しみがあった場所に、光を。


これからは「悪いものを出す」に加えて、内側から私を暖めてくれるような「いいものを入れる」ことも意識したいと思います。





その他に見つかったもの


やっぱり私はまだ「教わること」が怖いなあと感じました。特に男性講師に対して警戒感があります。


(これは明らかに父親と過ごした時間から来ています。自己肯定感の「残りHP」が1みたいな状態で生きているというか、ちょっと指導されただけでフラッシュバックしてしまうんですね。少年野球をしていたときに、父の意味不明な指導でイップスになったことが大きいと思っています。)


「力を緩めて」と言われているのに、「うまく緩めなきゃ」「こんな感じで怒られないだろうか」と力が入ってしまうのです。この現象を何とかしたいなあと思いました。


また、参加者が車座になり、互いに膝を触れ合わせながら呼吸をするというパートがあったのですが、触れること(触れられること)へのためらいと喜びがどちらも強くあるのを感じました(後に振り返ると、これは母親との時間の足りなさから来ているようでした)。



まとめ


長くなりましたが、読んでいただいてありがとうございます。


「からだ」をさがすことや、見つけた「からだ」をいたわったり正しい使い方をしてあげたりすることは、「自分を大切にする」ということの本当に重要な要素だと思いました。


考えてみれば当たり前ですが、「こころ」が(脳を介して)「からだ」に影響を与えるということは、その逆もできるわけです。


「こころ」の回復作業の重要なチャンネルとして、ぜひ「からだ」のケアを加えてみてくださいね。



↑この本には、トラウマがいかに脳と身体を改変してしまうかが書かれていて超おもしろいです。



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