こんにちは、ふゆひこです。今日も今日とて蒸し暑いですね。
さて、私、2ヶ月くらい前に驚愕の事実に気がつきました。
妻は、私とは別の人間だったんです。
妻は他人
「何を当たり前な」と思ったでしょう。私も思いました。
いきさつはこうです。
3月末くらいから、私は、とあるアダルトチルドレン用の回復プログラム(いつかご紹介します)にセルフで取り組んでいました。その一環で「あたま」の中のゴチャゴチャを何でもノートに書き付けているのですが、ある日突然、私はB5版のノートのページいっぱいに、こんなことを書いたんです。
「けいことニコイチになりたかった!!!!!」
「けいこ」というのは、妻です。私は妻とニコイチになりたかったのです。
アダルトチルドレンの悲しい性(さが)で、私には共依存願望があるのです。
私は結婚前からそのことに気をつけて気をつけて付き合っていたのですが、やっぱり「こころ」の奥底では「ふたりでひとつ」になりたかったのですね。
それで、それが無理だということに、この日とうとう気がついたんです。
私は、私の中にとっても悲しみがあるのを感じました。
寂しさも感じました。
だって、私たちはニコイチにはなれないんですから。ニコイチになれないということは、妻は他者、つまりは他人だということです。
妻は他人。
何ということでしょう。(※「ビフォー・アフター」の声で再生してください)
それで、私は「ちょっといいですか」と時間をもらい、妻にお詫びをしました。
いままであなたを他人と思っていませんでした。
私の都合のいいようになる人だとどこかで(無意識で)思っていました。
思えば、あなたをコントロールするようなことを、息をするようにしていました。
ごめんなさい。
そしたら、妻は涙を流してこう言いました。
「知ってた。」
さらに、
「息が・・・できる・・・!!!」
その3分後くらいから妻の表情が結婚式の日みたいにキラキラし始め、次の日から服装も何となく変わりました。
妻と知り合って6年になりますが、私は初めて彼女自身と出会ったのかもしれません。
人も他人
間もなく私は、そのものズバリ『妻は他人』というタイトルのマンガと出会いました。
このマンガには続編があり、そのタイトルは、『人は他人』。
こんなシンプルな真理があるでしょうか。
私は、自分とって最も重要なこの真実を忘れないために、このマンガを購入して、タイトルの書かれた背表紙が常に目に入るところに置いています。
思えば、私たち日本人は、アダルトチルドレンであってもなくても、家族や同じ集団に属する人たちのことを「他人」とは考えませんね。
「言わなくても分かる」とか「空気を読む」とか言いますね。「察する」とか「忖度(そんたく)」とか。
しかし、眼の前の相手を「他人」と考えない空気というのは、ときに怖いものです。
そこでは、ほんとうの「わたし」が周囲と異なっていたとき、それを押し殺して周囲に合わせることが選択されがちです。
そして、そのような同調を相手にも要求することになり、結果、みんながほんとうの「わたし」(自分自身)ではいられなくなります。
もちろん、妻や人が私とは異なる「他者」であること、理解できないかもしれない「他人」であることは、私にとって寂しいし、不安だし、怖いことでもあります。
しかし同時に、「他人」であるからこそ、たとえば他人であるはずの妻が私と同じ夕焼けを見て同じように「美しい」と言ったり、同じものを食べて同じタイミングで「おいしい」と言ったりすることが、奇跡のようで、ありがたいこととして感じられます。
「同じこと思った!他人なのに!ラッキー!!超ありがとう!」みたいになります。
また、妻だけでなく全ての人の「ほんとうのわたし=minä」も、とてもキラキラして魅力的なはずです。
私たちは、同じであることを諦め、人を「他人」と思うことで、そんな魅力的なキラキラした相手に出会うことができるのです。
私の好きな「オープンダイアローグ」も、参加したそれぞれが「他人」≒別個の「わたし」としてそこに居るからこそできることです。
みんな同じだったら話をする必要がありませんからね。話しても何も産まれませんし。
「妻は他人、夫も他人、子も他人。親も他人で、人は他人だ。」
心の標語にしようと思います。
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